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3.最盛期の粟ヶ崎遊園(1933年~1937年)

ページID:0012532 更新日:2023年3月6日更新 印刷ページ表示
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(1)演劇部門の参謀本部「バッカス」

雑誌粟ヶ崎表紙 雑誌粟ヶ崎に掲載の広告

 東耕三の兄弟である高木政雄(たかぎまさお)が経営するパブ「バッカス」には金沢の文化人がよく出入りしており、鞍信一(くらしんいち)=五反田信一(ごたんだしんいち)もバッカスの常連の一人でした。

 バッカスでは、鞍が編集する月刊誌『酒神』を発行し、盛んに粟ヶ崎遊園の宣伝を行いました。同じく鞍が編集していた『モダン金沢』でも粟ヶ崎遊園が宣伝されており、こちらは浅電の公認で大々的にレビュー後援会の会員を募集していました。会員になると会報と会員割引券が送られ、抽選で踊り子のサイン入りブロマイドやステージ写真がもらえました。会費が不要ということも相まって入会申し込みが殺到したようです。

 浅電も、チラシのほかに『粟ヶ崎』という独自の機関誌を発行し、宣伝に努めました。もちろん、しっかりとバッカスの広告も掲載されていました。

 このバッカスと粟ヶ崎遊園の関係が、のちに粟ヶ崎遊園の舞台の爆発的な人気を生むきっかけとなりました。

 

(2)粟ヶ崎遊園で生まれた「あきれたぼういず」

あきれたぼういず 舞台に立った藤井とほる一座

 東耕三は亡くなった川上一郎が率いた大衆座の代役として、金沢市内の劇場「第二菊水」に出演していた藤井とほる一座を、粟ヶ崎遊園の舞台に立たせました。これは金沢の鞍信一からの紹介でした。

 一座は8人から9人程度の小所帯でしたが、坊屋三郎(ぼうやさぶろう)の弟である芝利英(しばりえ)や、増田ひろしといったコメディアンがいました。増田は、粟ヶ崎遊園で益田喜頓(ますだきいとん)と改名しており、後に東京で一世を風靡する「あきれたぼういず」の下地がこの地でできあがったようです。

 このコミックなボーカルグループは新鮮で、粟ヶ崎遊園の観客から人気を集め、広いホールがいつもいっぱいになりました。

 しかしながら、後に益田が一座から離れると、パフォーマンスはいま一つ迫力に欠けたものになったようです。人気は下降線を辿り、しばらく経って一座は解散することになりました。

 

(3)少女歌劇への熱狂的な声援

春のおどり

 直営になると、浅電は運営課長だった松本金太郎(まつもときんたろう)を演芸担当として送り込みました。浅電が、遊園の経営について独立採算を強く求めていたため、松本は大劇場での催しに細心の注意を払いました。

 1934(昭和9)年には、大衆座の人気が落ち込み、レビュー全盛の時代になります。同年4月には音羽君子(おとわきみこ)、三浦歌津子(みうらかずこ)らによる『春のをどり』、そして野島左喜子(のじまさきこ)、竹久昌子(たけひさまさこ)、山本初江(やまもとはつえ)らによる歌舞伎劇『義経千本桜』が上演され、観客を魅了しました。この頃になると、舞台の幕が下りると座布団が飛び交い、目の肥えた観客の熱狂的なアンコールが続くようになりました。

 

(4)スター誕生と育成

ミラノマリ子 壬生京子

粟ヶ崎歌劇学校

 さらに最初のスターといわれたミラノ・マリ子をはじめ次々とスターが誕生しました。

 1935(昭和10)年3月に初めて粟ヶ崎遊園の舞台に壬生京子(みぶきょうこ)が登場します。たいていの踊り子たちは少女歌劇のレビュー専科でしたが、壬生は天賦の器用さでレビューと芝居の両方をこなし、瞬く間に大衆の人気を獲得しました。1936(昭和11)年3月には壬生が出演する『マダムの秘密』、『春に踊る』がロングラン。この頃には壬生に爆発的人気が集まり、観客は熱狂的な声援を送っていました。

 また、宝塚出身の宝生雅子(ほうしょうまさこ)は大衆の人気とは別に、本場宝塚仕込みの芸がほかのどの踊り子よりも一枚上だったといいます。

 他にも、橘雪江(たちばなゆきえ)、望月小夜子(もちづきさよこ)、小夜昌子(さよまさこ)、明石瞳(あかしひとみ)といったスターが次々と育ち、踊り子たちの切磋琢磨によって粟ヶ崎遊園の舞台は大いに盛り上がりました。

 少女歌劇の人気は、1935(昭和10)年10月のプログラムで初めて少女歌劇の団員を粟ヶ崎娘を意味する新語「アワジェンヌ」という言葉で紹介されるほどになりました。さらに『秋の踊り』の主題歌に『おゝ粟ヶ崎娘(アワジェンヌ)』が採用されました。

 そして1937(昭和12)年9月には、以前からの懸案であった生え抜きの踊り子を養成するため、独自の粟ヶ崎遊園歌劇学校を発足しました。粟ヶ崎遊園歌劇学校育ちの踊り子は、1938(昭和13)年の7月に上演した藤井とほるのグランド・レビュー『日本刀記』の舞台に立ちました。これは藤井が精魂こめて制作し、遊園が興亡をかけた自信作で大ヒットしました。生え抜きの踊り子を養成する発想はとてもよかったのですが、少し時機が遅かったようです。

 

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