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内灘の位置・地形・気象

ページID:0002353 更新日:2021年11月8日更新 印刷ページ表示
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光あふれる砂丘のまち 内灘

内灘砂丘の写真

内灘砂丘

河北潟の写真

河北潟

手取川から運ばれた土砂が日本海の海流によって流され、堆積したのが内灘砂丘です。
砂は大陸からの風にさらされて、日本海側ではなだらかに、河北潟寄りでは急斜面を形成しています。
防風のための植林による松・アカシア林が特に多く存在します。

町の位置

内灘町の位置のイラスト

位置 東経136°38′42″ 北緯36°39′13″
金沢中心部より北西の位置
海抜最高 58.51m
町のほとんどが砂丘
面積 20.33 平方キロメートル(東西2.9km ―南北9.0km)
南北に細長い町
隣接市町 金沢市/津幡町/かほく市

町の気象

日本海側及び北陸特有の雨、そして湿度の多い気候です。しかし西風が吹く海に近く、高い山々より遠く離れている立地条件もあって、意外と爽やかで雨や雪も石川県の中では少なめです。

町の沿革

内灘町は加賀地方最初の石器発見地として考古学上著名であり、町域各所の砂丘埋没黒土層には、縄文時代から古墳時代初頭の遺物が埋蔵され、早くから人びとの生活が営まれてきたことを示しています。また、古代の遺物として、わが国最北端の出土品として重要視されている、弥生時代の「銅鐸」が、当町河北潟のほとりで発見されています。中世においては、式内社である小濱神社(黒津船権現)が現在の権現森に鎮座し、近郷七箇村の中心的な位置を占め、その結合の核となっていました。また、小濱神社は江戸時代になっても加賀藩前田氏の保護のもと、当町の歴史に少なからず影響を与えてきました。
明治以降内灘町の漁業は著しい発展を遂げ、出稼ぎ漁業は、南は九州から北は北海道・樺太にまで及び、全国各地に多くの魚場を開拓してきました。また、大正末期には金沢駅から機具橋(はたぐばし)の手前(新須崎駅)まで電車が開通し、"北陸の宝塚"ともいわれた粟ヶ崎遊園が賑わいを見せていました。
第2次世界大戦後、内灘町では食料増産を目的とした砂丘地開墾事業に着手しました。しかし、昭和27年からは、米軍砲弾試射場として砂丘地の大半が接収され、全国的な反基地闘争のさきがけとして名を馳せた"内灘闘争"が起こりました。米軍砲弾試射場は、昭和32年に米軍の引き上げで閉鎖されましたが、この間に試射場にかかる補償事業として、公共施設や道路の建設が行われました。
昭和30年代後半から高度経済成長期にかけては、県営住宅の建設や土地区画整理事業の実施によって、砂丘地において本格的な新しいまちづくりが行われました。昭和47年には金沢医科大学が開学し、また、能登有料道路の開通により金沢と能登を結ぶ交通の要衝として、さらには、金沢市近郊住宅都市と学園都市を2大特性とする"閑静で明るいまち"として今日に至っています