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内灘の歴史

ページID:0002355 更新日:2021年11月8日更新 印刷ページ表示
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古代・中世・近世・現代について

小濱神社・社趾

小濱神社・社趾

村御印

村御印

金沢医科大学病院

金沢医科大学病院

古代

内灘砂丘は加賀地方最初の石器発見地として知られています。
大根布・宮坂・西荒屋の各砂丘からは縄文中期から古墳時代の石斧はじめ、石包丁や石匙、鏃、玉製品が多く出土しています。
また河北潟辺から発見された弥生時代の銅鐸は、わが国最北辺位置の出土品として、注目されています。

中世

古代から中世へかけての当町の歴史には、まだ解明されていない部分が多く、内灘町が歴史にはじめて姿を現わしたのは、平安中期に発刊された延喜式神名帳(927年)に小濱神社が名を連ねてからです。この地に式内社があるということはかなり古い時代から村里が開けた証拠といえます。不毛の地と言われた砂丘上に人が住み、村が開けたのは、海と潟の漁業ができたからです。

近世

藩政時代には加賀藩支配のもとに、前田氏の一向一揆根絶をねらいとした小濱神社の保護統制、十村組支配での根布7村の動きなど、歴史も大きな移り変わりをみせました。
室、大崎の金津組、向粟崎、本根布、大根布、荒屋、宮坂の浜金津組の十村組は、天保10年の組替えで全村が金津組に編入され、そのまま明治に至っています。このほか河北潟干拓にからむ銭屋五兵衛の投獄事件も特筆される史実です。
明治22年、町村制施行で、向粟崎、大根布、宮坂、黒津船地内、西荒屋、室の6村が合併して内灘村が設けられました。
その後、大正末期から昭和16年頃まで「北陸の宝塚」といわれた一大パラダイス「粟ヶ崎遊園地」が一世を風靡し、第2次世界大戦が始まるまで、内灘は華やかでモダンな地として名を馳せました。

現代

昭和27年(1952)9月から米軍試射場接収問題が起こりました。
翌28年を頂点として日本の戦後史にも残る接収反対運動が盛り上がり、昭和32年、米軍の完全撤退によって終止符が打たれましたが、内灘にとってはひとつの転換期でもあったのです。
その後、沿岸漁業の不振も有り、昭和32年の国営砂丘地干拓事業の竣工、昭和33年~38年の河北潟埋立事業による増田などの農業振興政策が進展しました。他方、産業構造の変貌に伴い、家内工業的繊維産業が飛躍的に発展しました。
昭和37年1月町制を施行し、その後、金沢市近郊という地理的条件から住宅団地造成が相次ぎ、人口の急増、教育、文化施設や都市発展基盤の整備が進められてきました。
昭和45年には火力発電所建設計画が持ち上がり、かつての基地反対闘争の町内灘は、再度激しい反対運動を展開していくのです。
現在、これらの近隣地域には、金沢医科大学とその附属病院が立ち並び、日本海側有数の医療機関として多くの人が利用しています。
 
風香り人がきらめく町"うちなだ"は、長い歴史で培われてきた住民参画という理念のもと、住みやすい町、住んでよかった町を目指して、新たな歴史を刻んでいます。