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4.粟ヶ崎遊園の閉鎖(1938年~)

ページID:0012533 更新日:2023年3月6日更新 印刷ページ表示
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(1)戦時色の強まり

戦時色の強いプログラム 大東亜建設戦博覧会

 1938(昭和13)年10月、粟ヶ崎遊園近くの河北郡川北村東蚊爪(現金沢市東蚊爪)に愛国金沢飛行場が完成すると、踊り子たちも戦争の緊張感を実感するようになりました。

郷土部隊の第九師団の戦況が粟ヶ崎遊園にも伝わるようになると、戦争に協力しながら経営安定を図る体制になりました。例えば、大劇場では華やかなレビューではなく、軍艦の艦上を舞台背景にした軍国調の軽演劇などの戦時色強いプログラムを上演しました。また、海水浴やキノコ狩り、下駄履きハイキングなど健全な娯楽行事を宣伝するようになりました。しかし、国民総動員の戦時下、客足は徐々に遠のいていきました。

 1939(昭和14)年を最後に、大劇場では大衆座や少女歌劇団の姿を見ることはなくなり、この年以降は、冨士小時一座やニュートウキョウ少女歌劇団、ニコニコ会舞踊劇団など、巡業する劇団の公演が主になりました。

 1940(昭和15)年6月には記念大公演として宝塚少女歌劇生徒120余名が出演する宝塚ショウが開催され、粟ヶ崎遊園開園15周年に花が添えられました。

 1942(昭和17)年には浅電の新須崎駅周辺で大東亜建設戦博覧会が開催されました。浅電が主催し、陸軍省、海軍省や石川県、金沢市が後援しています。チラシでは「一人残らずこの博覧会を観覧して我が無敵皇軍に満腔の感謝を捧げ決戦態勢を更に固めましょう」と呼びかけており、戦時下でも浅電の収益を生むべく、奔走していた様子が伺えます。

 1943(昭和18)年8月の公演時には、秋への飛躍のための一時的な閉園である旨を告知していましたが、それは叶いませんでした。この後、粟ヶ崎遊園の施設は軍の仮兵舎など、多目的に使われるようになりました。そして、1944(昭和19)年3月には日本タイプライターの疎開工場に転用され、いわゆる軍需工場として余生を送ることとなったのでした。

 

(2)閉鎖後の粟ヶ崎遊園

オリンピック観光博 粟ヶ崎遊園解体作業中

 1945(昭和20)年に終戦を迎えると、北陸鉄道との合併で経営母体であった浅野川電気鉄道もなくなってしまいました。

 1951(昭和26)年、粟ヶ崎遊園の施設を利用して、ヘルシンキ大会を宣伝するオリンピック観光博覧会が開かれ、同年の秋には処分のために施設のほとんどが売りに出されてしまいました。

 戦争と、その時代に押し流された粟ヶ崎遊園は、文字通り砂上の楼閣の如く消えて跡形もなくなってしまったのでした。

 

【前】3.最盛期の粟ヶ崎遊園(1933年~1937年)