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ページID:0011404 更新日:2022年11月1日更新 印刷ページ表示
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(1)試射場に選ばれた内灘砂丘

試射場一時使用 

 内灘以外にも「八戸(はちのへ)(青森県)」、「御前崎(おまえざき)(静岡県)」、「伊良湖(いらご)(愛知県)」が候補地となっていました。その中から内灘砂丘が選ばれた理由には、当時の国際情勢と政府の思惑が関係していました。

 試射場を早急に必要とした背景には、1950(昭和25)年の朝鮮戦争がありました。日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮半島に派遣されていて、大量の物資や兵器が日本の企業に発注されていました。砲弾は試射を行い性能を確認してから納入しなければならなかったため、政府は一刻も早く国内に試射場を確保する必要がありました。

 内灘砂丘は、明治時代から旧陸軍の演習地として度々使用されており、当時ほとんどの土地が国有地であり、住宅地、農地が少なかったため、政府は補償が少なく済むと考えました。また、1952(昭和27)年9月17日、内灘砂丘の近くに工場を所有していた小松製作所が防衛生産の金融措置として1億5000万円の融資を受けることが決まり、砲弾などを生産することになりました。こうした条件が揃い、内灘砂丘が試射場に選ばれたのです。

 

※Please click here for the explanation translated into English.(英文での解説は以下のリンクをご覧下さい。)

Topics (1)〈Why was Uchinada selected as the weapons testing site?〉 [PDFファイル/341KB]

 

 

(2)おかかたちの活躍

 座り込むおかかたち

 反対闘争では「おかか」と呼ばれる内灘の女性たちが活躍しました。当時、内灘の男性のほとんどが沖合で漁業を行っていたため、男性に代わって村に残っていた母親や妻といった女性たちが中心となって座り込みや陳情を行っていました。

 しかし、平時の日中、おかかたちは農作業や河北潟での漁、魚の行商などで生活をしていたため、反対闘争の長期化によってそれらが疎かになると、生活が困窮し始めました。そこで、反対闘争に参加していた学生たちが農作業や漁を手伝い、おかかたちを助けました。また、座り込みで収入が激減した村民たちのために、お金や日用品が全国から絶え間なく送られてきました。こうした全国からの支援や激励に支えられ、おかかたちは反対闘争を続けることが出来ました。

 

※Please click here for the explanation translated into English.(英文での解説は以下のリンクをご覧下さい。)

Topics (2)〈Meet the “Okaka,” the Leading Ladies of the Protest Movement〉 [PDFファイル/304KB]

 

 

(3)闘争の象徴となったムシロ旗

闘争の象徴となったムシロ旗

 ムシロ旗はプラカードのような存在で、布の代わりに藁やイグサで編んだムシロに文字を書き、竿にくくりつけたものです。江戸時代の百姓一揆の頃から用いられていました。

 村民たちは、このムシロ旗に「金は一年、土地は万年 内ナダ」、「接収絶対反対」などと接収反対への強い思いを書き、デモや抗議の際に掲げました。当時、内灘は貧しい村であったため、ムシロ旗は家で日常的に使っていたムシロを持ち寄って作られました。やがて全国的に報道されると、このムシロ旗は闘争のシンボルとみなされるようになりました。

 

※Please click here for the explanation translated into English.(英文での解説は以下のリンクをご覧下さい。)

Topics (3)〈Mushiro Flags: Symbols of the Struggle〉 [PDFファイル/287KB]

 

 

(4)「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦

当選した井村徳二

 内灘闘争は国政にも影響を与えました。1953(昭和28)年4月24日に行われた参議院議員選挙では、内灘砂丘の接収が争点の一つとなりました。結果、内灘砂丘を接収するために地元の説得にあたっていた現職の林屋亀次郎(はやしやかめじろう)を破り、内灘砂丘の接収反対を公約に掲げた改進党の井村徳二(いむらとくじ)が当選しました。

 また、この選挙は林屋が「武蔵(旧丸越デパート)」、井村が「大和(旧宮市大丸)」という百貨店の経営者であったことから、太平洋戦争中の戦艦「武蔵」と「大和」になぞらえ、『「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦』と呼ばれました。選挙で争った2人ですが、実は戦時統制による企業統合令により、1943(昭和18)年12 月21日に林屋が経営する丸越デパートと井村が経営する宮市大丸とが合併して大和となった際には、一時期、林屋亀次郎が初代会長、井村徳二が初代社長という関係でもありました。

 

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Topics (4)〈The Uchinada Offshore Battle between the Musashi and the Yamato〉 [PDFファイル/342KB]

 

 

(5)闘争で生まれた地域差

最後まで座り込みを行っていた北部住民

 1953(昭和28)年8月以降、反対闘争に各地区で差が出てきました。最初に座り込みを止めたのは大根布(おおねぶ)の人たちでした。1953(昭和28)年8月2日に開催された大根布区民大会において外部団体との絶縁を決議し、8月16日には、若者を中心に愛村同志会(あいそんどうしかい)を結成しました。一方、最後まで座り込みを続けていたのは、黒津船地内(くろつぶねじない)(現宮坂(みやさか))・西荒屋(にしあらや)・室(むろ)といった北部の住民でした。

 こうした地域差が生まれた原因は、試射場が生活に与える影響の度合いが関係していました。最初に反対闘争を止めた大根布は、他の地域に比べると影響が少なく、座り込みを続けて生活が困窮するよりも、補償金を新しい仕事の資金にした方がいいと考える人が多かったのです。一方、北部の住民は漁業で生計を立てている人が多く、加えて試射場に近いため騒音にも悩まされ、試射が続くことで生活に更なる支障をきたす心配がありました。最後まで抵抗を続けた北部の住民には、かつての穏やかな生活を送るために、砂丘を取り戻す必要があったのです。

 

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Topics (5)〈Regional Differences born from the Struggle〉 [PDFファイル/334KB]

 

【前】4.闘争の終焉・その後(1953年8月~1957年3月)

 

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