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内灘村では村民の多くが日本海、河北潟を漁場にして、漁業で生計を立てていました。しかし漁業に頼る生活は非常に不安定なものでした。加えて終戦直後の食糧難によって米の需要が高まり、漁業生活を脱却し農業で安定した収入を得たいと思うようになりました。
そこで、村では1946(昭和21)年に軍用地払下期成同盟(ぐんようちはらいさげきせいどうめい)を結成し、旧陸軍に買収されて国有地となっていた「内灘砂丘」を農地にしようとする運動を起こしました。この運動をうけた石川県は、国から内灘砂丘を買い取って、農地開発のための植林をした上で内灘村に払い下げることを決定しました。こうして村民は、砂丘地での農業に希望を抱くようになりました。
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1952(昭和27)年9月6日、アメリカ軍が突然、払い下げが予定されていた内灘砂丘を極秘で視察しました。その数日後には、警察予備隊(現自衛隊)が内灘砂丘の一部を接収する動きに出ているという情報が村に入ったため、内灘村長・中山又次郎(なかやままたじろう)は陳情を行うため東京へ向かいました。
しかし、陳情の甲斐もなく、9月20日には政府が石川県に対して詳細な内容や条件を加えて内灘砂丘の接収を伝達しました。このことは村民たちにも知れ渡りました。
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1.(2)〈The Sudden Requisition of the Uchinada Dunes〉(September, 1952) [PDFファイル/352KB]
9月21日、内灘村議会全員協議会(以下「村全員協議会」)において、接収については補償などの条件に応じることなく全面的に反対することが決議され、内灘砂丘の接収反対闘争が始まりました。
早速、9月22日に内灘村当局と村議会は農林省や石川県知事・柴野和喜夫(しばのわきお)、石川県選出の参議院議員・林屋亀次郎(はやしやかめじろう)に接収反対の陳情を行いました。また、村民たちが接収反対の署名運動を起こしたところ多くの署名が集まり、9月26日に内灘村から農林大臣宛てに接収反対の嘆願書とあわせて送りました。
このように、政府が予想していた以上に反対闘争が盛り上がりをみせたため、10月8日、内灘砂丘の接収は一旦白紙に戻りました。
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