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1952(昭和27)年10月1日の衆議院議員選挙により、10月30日に第四次吉田内閣が組閣されました。改めて内灘砂丘の接収を説得するため、国務大臣に林屋亀次郎(はやしやじろう)が起用されました。
11月11日に石川県農林部長より内灘村当局へ「農林省・日米合同委員会で有力な接収候補地になった」と連絡が入りました。これを受けて、中山又次郎(なかやままたじろう)らは再び上京し、外務省の国際協力局長・伊関佑二郎(いせきゆうじろう)ら政府関係者と会談を重ねました。しかし、11月25日の閣議において内灘砂丘を接収することが抜き打ちで決定されてしまいました。
この強引な決定に地元住民は激怒し、本格的な内灘砂丘接収反対闘争へと展開していくことになります。11月26日には内灘婦人会およそ1000人が、県知事に反対陳情した後、金沢市内でデモを起こしました。その翌日、林屋が地元との交渉のため金沢駅に降り立つと、駅前では反対派の住民およそ1500人がムシロ旗を掲げて抵抗をみせました。
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激しい反対闘争の中、中山又次郎(なかやままたじろう)ら内灘村当局は、林屋亀次郎(はやしやかめじろう)ら政府関係者と話し合い、11月30日の村全員協議会にて、4か月の期間に限り次の条件付きで接収に応じることにしました。
(1)4か月以内に818町歩(=約8,100,000平方メートル ※1町歩=約9,900平方メートル)の国有地全体を村に払い下げること
(2)4か月の使用後は即時撤収し、1日も駐留を許さないこと、1発も弾丸を撃たないこと
(3)更生資金を1億円とし、補償金は即時現金で支払うこと
(4)治安、風紀を維持するため国家地方警察(現警察庁)の警察官を増員配置すること
(5)社会文化の向上をはかるために文化施設を拡充すること
(6)早急に道路を補修すること(特に向粟崎(むかいあわがさき)から室(むろ)の県道)
この後、12月2日の閣議で内灘砂丘の条件付き接収が決定し、使用期間は1953(昭和28)年1月~4月の4か月間となりました。しかし、この決定に激しく憤った村民も多く、中には村長へ詰め寄った人もいました。
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2.(2)〈Towards the Four-month Requisition〉(November-December, 1952) [PDFファイル/356KB]
1953(昭和28)年1月になっても、試射が始まる気配はありませんでした。2月7日、鉄条網、砲座、兵宿舎、鉄板道路などの工事が始まり、3月18日にようやく試射が開始されました。予定していた使用期間から2か月半が経過していました。
試射が始まると、村民たちは海での漁業が完全に出来なくなっただけでなく、近隣の金沢市大野や宇ノ気町・七塚町(現かほく市)にまで響きわたる砲撃の発射音、炸裂音にも悩まされました。そこに永久接収の話も浮上したため、政府やアメリカ軍に対する地元住民の不満は頂点に達し、さらに内灘砂丘接収反対闘争が活発化していきました。
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2.(3)〈Growing Unease as the Weapons Testing Commences〉(January-March, 1953) [PDFファイル/349KB]