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試射場の使用期限1か月前になっても、政府やアメリカ軍は今後の方針を示さず、さらに永久接収の話が浮上してきました。このため反対闘争は「一時使用への反対」から「永久接収絶対反対」へと転換しました。この頃になると、地元住民だけでなく、北陸鉄道の労働組合をはじめとする各労働団体や青年団、婦人会など石川県内全体で反対闘争が広がり始めました。次第に県外からも支援が行われるようになり、全国的に注目を集める反対闘争に発展していきました。
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3.(1)〈Worries of a Permanent Land Requisition〉(April, 1953) [PDFファイル/326KB]
反対闘争は選挙にも大きな影響を及ぼしました。1953(昭和28)年4月24日に行われた参議院議員選挙で、内灘砂丘を接収するために地元の説得にあたっていた現職の林屋亀次郎(はやしやかめじろう)が落選しました。林屋を破って当選したのは、内灘砂丘の接収反対を公約に掲げた改進党の井村徳二(いむらとくじ)でした。その結果、政府は接収反対派の意見を無視出来なくなり、使用期限を迎えた4月30日をもって当初の予定通り試射が中止されました。
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試射の一時中止後、補償付きでの再使用の話が持ち上がりました。そのため内灘村当局をはじめとした接収反対を掲げる各団体は、石川県庁や国会、首相官邸で陳情を続けました。また、村当局は漁業再開を願う村民のためにその許可が下りるように国に訴え、1953(昭和28)年5月9日に村当局を通じて村民たちへ漁業再開の許可が下りたことが伝えられました。
5月15日、村当局主催の村民大会で「永久接収絶対反対」が決議されました。そして、その大会の中で内灘村永久接収反対実行委員会(以下「村実行委員会」)が結成され、内灘村長・中山又次郎(なかやままたじろう)が委員長に就任しました。これに合わせて石川県議会が無期限使用阻止の声明を出し、石川県知事も反対陳情団の先頭に立つなど、反対闘争はさらに広がりを見せ始めました。
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反対闘争が全国的な広がりを見せているにもかかわらず、6月2日、政府は「試射場の再使用」と「内灘砂丘の永久接収」を閣議で決定しました。これを受けた6月3日の村民大会で、村実行委員会は、この決定に至った責任を追及するため、中山又次郎(なかやままたじろう)を委員長から退任させ、新たに出島権二(でじまごんじ)を選出しました。さらに、「委員を32名から60名に増員して村実行委員会を強化すること」、「試射場周辺の鉄条網を1週間以内に撤去するよう県知事に申し入れ、撤去されなければ村民が総力をあげて取り払うこと」などを決定しました。
この村民大会をきっかけに、反対闘争は一段と激しさを増しました。6月10日、試射場の再使用について説得するため石川県を訪れた政府関係者の県庁入りを阻止するべく、地元住民や労働団体、学生らおよそ2000人のデモ隊は金沢駅で待ち構えていました。政府関係者がルートを変更して県庁へ向かったところ、それを知り県庁前の広場に移動したデモ隊と警察とが衝突し、負傷者を出しました。
また、以前より内灘への軍需輸送の拒否を決議していた北陸鉄道の労働組合は、6月14日から48時間にわたってストライキを決行しました。
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永久接収が決まったことで村民たちの怒りは頂点に達し、6月12日には、試射場内16か所に小屋を建設し、座り込みを開始しました。さらに、国から石川県を通して試射場内の漁船や工作物などを日没までにすべて撤去するよう命令が出ていましたが、6月14日には、およそ700人の村民たちが権現森(ごんげんもり)で夜通し座り込みを行いました。
しかし、こうした村民の行動も意に介さず、6月15日午前8時2分、アメリカ軍は試射を再開しました。村民たちは各地区で場所、時間を決めて、着弾地点の権現森やアメリカ軍キャンプ入口前の鉄板道路上で座り込みを続けました。6月28日からは村実行委員長・出島権二(でじまごんじ)や村議会議員らが上京し、参議院議員会館前で約1か月間座り込みを行いました。
また、1953(昭和28)年7月以降、石川県より「射程延長のため権現森付近は危険」との連絡が入ったにもかかわらず、村民たちは漁業を試射場の敷地内で強行することで射程延長を中止させるなど、激しく抵抗しました。
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3.(5)〈Weapons Testing Resumes, and the Sit-ins Begin〉(June-July, 1953) [PDFファイル/370KB]