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2.成長する粟ヶ崎遊園(1929年~1933年)

ページID:0012530 更新日:2023年3月6日更新 印刷ページ表示
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(1)粟ヶ崎遊園の復興と浅電の全線開通

粟ヶ崎遊園前駅 海水浴客で賑わう浅電金沢駅前 海水浴場、遊園間優待券

 突貫工事にも関わらず、復興後の粟ヶ崎遊園は、1,000人を収容できる大劇場をはじめ、娯楽施設が焼失前にも増して豪華になりました。再開をきっかけに、粟ヶ崎遊園の代表には平澤の次男、喜久男(きくお)が就きました。

 軌道の延長工事は大野川を跨ぐ鉄橋の架橋の際、川の流れを止めずに作業を行ったため、難工事となり思わぬ時間がかかってしまいました。苦労の末に鉄橋を完成させると、残りは砂地ばかりの工事であったため、すぐに遅れを取り戻し、新須崎~粟ヶ崎海岸間の2.4kmが予定どおり1929(昭和4)年7月14日に営業を開始し、全線の開通によって総延長8.5kmとなりました。

 電車は朝の5時半から30分間隔で夜の11時半まで運行しており、多くの利用者があったことが分かります。乗客は須崎からわざわざ歩かなくて済むことになり大いに助かったようです。また、粟ヶ崎遊園駅には渡り廊下が設置され、雨の日でも本館付近まで濡れずに行くことができるようになりました。

 また、この頃から粟ヶ崎海水浴場と粟ヶ崎遊園が二人三脚で賑わいをみせるようになりました。夏になると、海水浴場と遊園とが完全に一体となり、電車賃を3割引したり、連絡切符を発行したりと利用者を喜ばせました。

 圧巻なのは土用の丑の日で、この日は白鳥の池から松原公園の一帯に電飾が施され、遊園は夜通しで開園し、大劇場の舞台では芝居と歌劇が上演されました。浅電も終夜運行しており、粟ヶ崎遊園を楽しんだ後、粟ヶ崎海岸駅まで電車に乗って行くと、ライトアップされた砂浜で夜の海水浴に興じる者もいたようです。

 こうした経営努力の甲斐もあり、金沢ばかりでなく、加賀や能登、越中などからも面白いようにレジャー客が訪れるようになり、修学旅行にも利用されるようになりました。

 

(2)モボ・モガの登場

モダンガール

 1920(大正9)年から1929(昭和4)年頃にかけて、都会では西洋文化の影響を受けた先進的な若い男女、モダンボーイ・モダンガール、いわゆる「モボ・モガ」が登場しました。粟ヶ崎遊園にモボ・モガが現れたのは、都会より少し遅れた1930(昭和5)年頃でした。

 ラッパズボンにカンカン帽のモボや、ローウエストの服に断髪のモガは、金沢一の歓楽街である香林坊でも、そのファッションが奇抜すぎてそのままの姿では歩けなかったようで、上に何かを羽織っていたといいます。しかし浅電に乗ると、その羽織をかなぐり捨て、車内は時代の先端をゆく若者たちで大いに賑わったようです。

 

(3)平澤の死

 こうして粟ヶ崎遊園は北陸の大衆娯楽の目玉となっており、夏本番になると海水浴場と連動し、どの施設も大賑わいをみせていました。一方、不況の長期化により経営する材木業が思わしくなく、自宅と会社をたたみました。

 この頃、平澤にとって悲しい事が相次いで起きました。1930(昭和5)年2月22日、跡継ぎの喜久男が36歳の若さで突然亡くなりました。喜久男は元々病弱ではあったものの、これには平澤も動揺を隠しきれず、泣き崩れてしまいました。これ以降平澤は浅電や粟ヶ崎遊園にあまり姿を見せなくなりました。妻のナヲと一緒に粟ヶ崎遊園に滞在することはあったようですが、羽衣別荘に引きこもることが多くなりました。その妻ナヲは1931(昭和6)年5月2日、風邪をこじらせて帰らぬ人となりました。

 さらに1932(昭和7)年5月30日、大衆座の座長であり粟ヶ崎遊園の演芸部長を務める川上一郎が突然この世を去りました。粟ヶ崎遊園には大浴場や遊戯場、動物園といった娯楽施設が充実していましたが、目玉はなんといっても芝居と少女歌劇の大劇場。跡継ぎ、妻、そして劇場の中枢を失った平澤は、ついにショックで熱を出し、寝込んでしまいました。もはや立ち直る気力は残っておらず、2日後の6月1日、平澤は68歳で息を引き取ったのでした。

 

(4)浅電の直営に

浅電直営

 残された平澤の遺族は債務整理に大忙しでした。どうしても資金が不足し、粟ヶ崎遊園は1933(昭和8)年に競売に付されることとなりました。

 事実上の経営者である浅電は、当初競売には参加しませんでした。結果、向粟崎の丹保與作(たんぼよさく)が落札しましたが、丹保は金策に窮し、金沢市の林屋亀次郎(はやしやかめじろう)に相談しました。林屋は粟ヶ崎遊園一帯で病院の建設を計画しましたが、周辺住民が計画に反対し阻止を図ったため、この計画は停止されました。最終的には、落札された価格で浅電に経営権を譲渡することとなり、粟ヶ崎遊園は浅電の直営となりました。

 なお、経営陣のはからいにより平澤の遺族は園内の売店運営を任されました。

 

(5)さらに栄える粟ヶ崎遊園

赤バス 新須崎から宇ノ気駅までのバス

 平澤の死後、粟ヶ崎遊園の運営を担ったのは、浅電の常務であった東耕三でした。この頃に、金沢電気軌道によって12人乗りの金沢市内バスが粟ヶ崎遊園までの運行を開始し、交通の便がさらによくなり、粟ヶ崎遊園はもっとも成長する時期を迎えることとなります。

 また、能登方面からの来園者のために、国鉄七尾線の宇ノ気駅~浅電の新須崎間にバスが運行していました。加えて、金沢駅前~粟ヶ崎遊園~大根布という路線でも運行していたようです。郵便自動車や消防自動車のように車体が赤かったため「赤バス」の愛称で親しまれ、20人乗り程度のバスは大変に混みあったといいます。

 七塚や宇ノ気方面からの団体客は、河北潟を渡る「駄賃船(だちんせん)」と呼ばれた漁船を利用することが多く、客の多いときには十数隻も同時に仕立てられました。船頭が櫓で漕ぐ船のため片道に2時間ほどかかり、船の中は酒や重箱を持ち込んで宴会を楽しむ人たちで賑わったそうです。

 

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