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1.粟ヶ崎遊園の誕生(~1929年)

ページID:0012527 更新日:2023年3月6日更新 印刷ページ表示
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(1)創設者は「北陸の材木王」平澤嘉太郎

平澤嘉太郎  平澤材木店

 創設者の平澤嘉太郎(ひらさわかたろう)は、国鉄金沢駅前で手広く材木業を営んでいました。全国の林業地を巡って見聞を広めたり、機械による最新の製材法をいち早く導入したりして北陸の製材界に革命をもたらし、「北陸の材木王」と呼ばれるまで成功を収めました。材木業で巨額の富を得た平澤は、一大パラダイスを建てる夢を抱くようになりました。

 

(2)夢のモデルは「阪急」「宝塚」の創業者

 平澤の夢に大きな影響を与えたのは小林一三(こばやしいちぞう)でした。1873(明治6)年生まれの小林は平澤より9歳年下であったものの、実業家として全国にその名を知られていました。

 小林は、慶應義塾を卒業して三井銀行に就職した後、大阪の阪鶴(はんかく)鉄道に入り、やがて同社系列の私鉄箕面有馬(みのおありま)電気軌道に専務として迎えられました。当時、箕面有馬電気軌道は都市と田園を結ぶ閑線に過ぎず、大阪市は人口急増による住宅難にあえいでいました。そこで小林は電車の沿線に宅地を開発して郊外居住者を大阪へ運べば採算が取れると見込み、沿線の開発に乗り出したのでした。

 さらに小林は、自社の鉄道を行楽の路線にすることを思い立ち、箕面公園に動物園を整備し、宝塚に新しい温泉を開いて、1914(大正3)年から少女歌劇を上演しました。今日の宝塚歌劇団の発祥です。小さな田舎電車の箕面有馬電気軌道が阪神急行電鉄「阪急(はんきゅう)」に名前を変えたのは少女歌劇上演から3年後のことでした。

 

(3)平澤が目指した地域開発

粟ヶ崎遊園の計画図

 平澤は「阪急」と「宝塚」の創業者である小林の経営スタイルを手本にして、粟ヶ崎遊園を平澤が中心となり敷設した浅野川電気鉄道(通称「浅電」)の付帯事業として計画しました。これは、鉄道の終点に「粟ヶ崎遊園」を開設することで、沿線人口の少ない浅電に乗客を呼び込もうとしたのです。

 それは小林が打ち出して、後に地域開発のスタンダードな手法として全国に広がる「鉄道経営」と「観光」のタイアップ事業の北陸版といえるでしょう。

 

(4)浅野川電気鉄道の敷設

 浅野川電気鉄道は1923(大正12)年3月、金沢市堀川町から須崎を経て向粟崎につなぐ区間計画で設立許可申請を行いました。資本金は30万円、発起人は平澤ら24人でした。同年5月に許可がおりると、同年6月には堀川町から金沢駅まで路線を延長するため、資本金を40万円に増資しています。

 1924(大正13)年1月に浅野川電気鉄道株式会社を設立すると、遊園地の開設を計画し、6万坪の土地を内灘村から借り受け、資本金10万円を投じて開園準備に奔走しました。

 そして、1925(大正14)年5月10日に第一期工事が完成し、七ツ屋~新須崎間の5.3kmが開通しました。

 

(5)私財をなげうった平澤

 当時最先端だったボギー電車を採用し、交通の便がよくなって喜んだのは沿線住民でした。須崎、大河端、諸江、七ツ屋などの沿線の豪農や大地主たちはすすんで出資しました。

 こうした機運に勢いを得たものの、残念ながら遊園地の開設については、みんなに分かってもらえませんでした。平澤は口を酸っぱくしてそのメリットを説きましたが、だれも本気で耳を貸してはくれませんでした。

 かねてから「私は個人の別荘を持ちたいとは思わない。この日本一の大砂丘に市民の別荘を建てることが私の念願であり、夢である。」と語っていた平澤は、当時にしては巨額の35万円もの私財をなげうったのでした。

 

(6)粟ヶ崎遊園の誕生

粟ヶ崎遊園本館   コドモノクニ

 1925(大正14)年7月19日、粟ヶ崎遊園が開園しました。同年9月には、長さ約60mもある大山すべり台などを有する「コドモノクニ」もオープン。ついに一大パラダイスを建てる夢が実現しました。

 さらに交通網の整備も進めていきました。1926(大正15)年4月には新須崎駅構内から河北潟を利用する遊覧船と貸船を始め旅客の増加を図りました。同年5月には浅電の第二期工事が完成、金沢駅前~七ツ屋間の0.8kmが営業を開始しました。これで金沢電気軌道の市内電車と接続されることになり、飛躍的に便利になりました。

 こうして施設の建設や交通網の整備が一段落し、いよいよ「北陸の宝塚」の第一歩を踏み出しました。

 

(7)押しも押されもせぬ「北陸の宝塚」へ

新国劇  少女歌劇のラインダンス

 珍しさも手伝って粟ヶ崎遊園は賑わいましたが、何より人気を不動にしたのは、新国劇の川上一郎(かわかみいちろう)を座長とする大衆座と少女歌劇団を組織したことでした。後に新派喜劇も加わり、とりわけ少女歌劇団によるレビューが若い観客に人気を博しました。レビューのフィナーレを飾るのはラインダンス。多彩に変化する照明の中で繰りひろげられる若い踊り子たちの脚線美は観客を魅了しました。若い観客には刺激がありすぎたのか、その刺激を求めて多くの若者が足繁く通ったようです。

 賑わうのは粟ヶ崎遊園だけでなく、浅電もその恩恵を受けました。行楽シーズンの週末ともなると、殺到する客をさばくのに駅員は骨を折りました。しまいには乗降口を鈴なりにしたまま電車が走り、乗客は寿司詰め状態のまま、新須崎駅までじっと辛抱しなければならないほどでした。下車後も粟ヶ崎遊園まで約半里の道が、行楽客で行列になり、子どもをおんぶする親も現れたほどでした。

 こうした状態では軌道の延長工事を急がざるを得ないとなり、1928(昭和3)年12月27日には資本金を75万円に増資し、新須崎~向粟崎の延長を決めたのでした。当初の構想では向粟崎まで延長した後に南北に分岐し、北は内灘を経由し宇ノ気で国鉄七尾線と結び、南は大野で金石線と結ぶことを考えていましたが、沿線の人口が少なく営業上の問題があったため、構想を断念し、軌道を粟ヶ崎遊園へ直接乗り入れることによって行楽客を誘致することにしました。

 

(8)放火による焼失

 夏になればネックになっていた新須崎~向粟崎も開通することもあり、年が明けて心のなごむ正月を迎えていた平澤を悪夢が襲いました。

 1929(昭和4)年1月7日、放火によって大劇場と附属倉庫、南広間旅館部5室、貸室23室の延べ5百坪が焼失してしまいました。冬期に新調した衣装や道具もすべて燃え、被害総額は20万円にも上ったといいます。

 かろうじて延焼を免れた本館の会議室には粟ヶ崎遊園の幹部のほか、東耕三(ひがしこうぞう)や藍元義弘(あいもとよしひろ)といった浅電の役員が集まり、お通夜のように押し黙っていました。そこで平澤は「見聞を広めないと人間は大を成さない。遊園の焼失は天の試練と受けとめればよい。大切なのは不屈の開拓精神。遊園は自分の手垢と汗が染み込んだかけがえのない玉手箱だ。答えはただ一つ、迅速な再建。みんなの協力をお願いしたい。」と話したそうです。

 平澤の大号令によって復興は目を見張る早さで進み、同年4月上旬には再び開園、何事もなかったかのように賑わいをみせました。

 

【次】2.成長する粟ヶ崎遊園(1929年~1933年)

【前】粟ヶ崎遊園の概要